映画レビュー「デッドマン」


「デッドマン DEAD MAN」2006年11月10日

【ひとこと】
 お前の詩は血で書かれる。

【物語のあらすじ】
 両親の葬儀を終え、残りの金で切符を買って、列車に乗り込んだウィリアム・ブレイク。目指すは雇用通知の差出人が居る終点の街。だが、現地ではもう別の人間を雇ったとけんもほろろにあしらわれ、銃を突きつけられて追い出されてしまう。仕方なく寂れた盛り場へ。酒場の前で出会った花売りの女・セルに誘われるまま、部屋へ行ったウィリアム。そこへセルの元婚約者・チャーリーが押しかけ、セルを撃つ。流れ弾でウィリアムも傷を負い、撃ち返してチャーリーを殺してしまう。心臓の脇に食い込んだ銃弾をそのままに、ウィリアムは逃げ出すが・・・

【感想など】
 これ、「死」の映画ですね。生と対になった死ではなくて、生の終着点としての死でもなく、ただ「死」を描いたもの。ウィリアムを「死」へ導く者としてインディアンのノーバディが登場。重症のウィリアムをろくに治療もせず(できないんだから仕方ないんだけど)最初から彼を「お前はもう死んでいるんだ」と死人として扱います。「銃はお前の舌だ」「お前の詩は血で書かれる」ノーバディの台詞がまるで予言であるかのように、次々にウィリアムは「死」を目の当たりにするわけです。全編モノクロ映像で、ギターの音だけに彩られる形の提示をされるんですね。こういうのはジム・ジャームッシュの美意識にのっとっているわけでしょうか

 さまざまな「死」が描かれます。それは偶然あたった弾であっけなく死んだチャーリーの死であったり、ウィリアムを餌食にしようとした通りすがりの皮はぎ職人らしき男達の死であったり、小鹿の死であったり・・・。そこには通常付随しがちな「悲しみ」とか「寂しさ」とかいう感情がなく、ただ「死」だけが投げ出されるように映し出されるという・・・。息絶えた小鹿のすぐ隣に寝そべるウィリアムの姿は、やがて死に行く者が予め約束されている死をほんの少し嗅いでいるようなシーンでした。あれはなんともいえない、非常に象徴的な場面ですねぇ。

 こういうアプローチの仕方、初めて観ましたよ。映画は登場人物の心理であったり感情であったりを映像と音楽と役者の演技とで表現してみせる部分がかなり大きい比重を占めていると思っていました。でも、これはまったく違う。およそ感情が出てこない、あえて出さない、というか。淡々と進んでいくので、わけわかんないと思う人もけっこういるんじゃないですか?西部劇というカテゴリのわりに、撃ち合うシーンは山場じゃなくて、眠くなるしw 正直、私は最初の方でついうっかり寝てしまいました。で、起きてからもう一回観直しました。最後まで観たからこうしてレビュー書いてますけど、時間なかったりしたら最後まで観なかったかも。ジム・ジャームッシュの感性についていけないんですよ、おそらくは。

 でも、ノーバディがウィリアムを「死」へ送り出すさまが、人本来の死の姿であるかのような気がして、これ観てよかったと思いましたね。人に薦めるかと言われたら微妙だし、この作品が好きかと問われたら「いや、あんまり・・・」なんですが。

 他人の死は遠巻きに眺めるしかないもので、自分の死は抗いがたいもの。誰もそれを避けて通ることはできない。たまに滑稽であったり、恐ろしかったり、無残だったり、するけれども。「死」は投げ出される事実。「死」は時間の流れから切り離されたもの。自然に還ること。そんなもろもろをぼんやりと思いながら観ました。ラストシーンで、ウィリアムが見たようなモノクロの空を 自分もいつか見るんだろな なんてね。そのときの空は晴れていてほしいな・・・・

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