時の記憶


 たとえば、綺麗な薔薇の花束をもらったとして、そしてそれがたいそう嬉しかったとして、あなたは花束をどうするだろう?もちろん、喜んで受け取り、部屋に飾り、数日間嬉しい気持ちで満たされているに違いない。けれどもその花束は、いつか枯れる。

 「あぁ、残念。もう枯れてしまったわ。」と、あっさり捨てるだろうか?もしくは活き活きと咲いているうちに天井から吊るし、ドライフラワーに仕立てるだろうか?半永久的に美しいプリザーブドフラワーに加工するという手もある。写真に撮って飾っておけば、花が枯れてしまってもその美しかった姿は2次元の世界で留めることができる。

 私は・・・枯れてしまう物の形をそのまま残すことに抵抗があった。特にドライフラワーは、いつまでも死骸をさらすに等しい気がして好きになれなかった。どこか「死」の匂いがする花、部屋に飾るなんて・・・・と思っていた。今でも、その抵抗感は残っている。その証拠に、私の家にはドライフラワーが一切ない。もしも今、花をもらったら、大喜びで写真に撮るだろう。そして枯れきってしまう前に捨てるだろう。

 岩の上に落ちた葉が、葉脈だけを残して綺麗に朽ちていた。そこには「時の記憶」が残されていると感じた。森の中で葉を茂らせた樹の記憶と言ってもいい。長い年月をかけて、成長した物は、同じくらいの時間をかけて、ゆっくりと朽ち果てていく。なんの感傷も伴わないはずの大樹の営みを「時の記憶」だなどと、ことさら言いたてるのもおかしいかもしれないけれど・・・。

 朽ちた葉の姿には、「死」の匂いを感じなかった。それは自然の中であたりまえのこととしてとらえたからなのかもしれない。枯れてしまった葉の命は尽きている。けれども、次へつながる流れが見える。春に芽吹いた木々が、夏には青葉を茂らせ、秋には紅葉し、冬に葉を落とす。その時々の「美」を見る気持ちで、朽ちた葉を眺めて、雄大な生命の流れを感じることは、「時の記憶」を知ることと同意のような気がした。

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